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鎌倉:鶴岡八幡宮・銭洗弁財天・大仏
鶴岡八幡宮
E舞殿


義経は平家討伐に活躍し、都での評判が高まるにつれ、兄頼朝とは不和が次第に深まり鎌倉ではついに義経討伐の議が決せられます。京都にいた義経は鎌倉方の土佐昌俊らに堀川の館を夜討ちされましたが、静の機転により危うく西国へ逃れます。そののち静は雪深い吉野山へ義経と行き別れます。やがて捕われ、義経捜査の為鎌倉へ送られてきた静は、八幡宮の神前に舞を奉納することになります。文治2年(1186)4月8日のことでした。「吾妻鏡」は「誠に社壇壮観、梁塵もほとほと動つべし、上下皆興感を催す」その感動ぶりを伝えています。静は頼朝が期待していた関東の繁栄を寿ぐ祝儀舞に反して義経との別れの曲を舞うのでした。(鶴岡八幡宮HPより)

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