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築地-隅田川テラス-永代橋
A勝鬨橋



勝鬨橋手前左手より川岸へ下りると隅田川テラスになる。

勝鬨橋の名前の由来は1905年に日露戦争における旅順陥落を記念して「勝鬨の渡し」が出来たことによる。その後1940年に皇紀2600年の月島に於ける万国博を予定して日本の威信をかけた本格的な橋が架けられた。

この歴史を見ると築地から勝どき・月島への本格的な交通路の開設は1940年で70年程度の歴史しかないことになる。その後に勝鬨橋を渡る路面電車が建設され、勝どき・月島地域は路面電車以外は交通手段が無い時代が長く、孤立された地域であったことが分かる。(有楽町線の月島開通は1988年、大江戸線の開通は2000年。)

勝鬨橋は写真のアーチ型の鉄橋が両端にあり、中央が跳ね橋になっており、大型船通行の際は跳ね橋が開いて隅田川の上流への通行を可能にした。当時としては高度な技術を集めた橋であることから「清洲橋」「永代橋」と共に国の重要文化財に指定されている。


関東大震災復興事業の主なものは100M道路整備(内堀通り、靖国通り、昭和通り)、延焼を防ぐ区画整備、避難地区として公園の造成(隅田公園、浜町公園、錦糸公園)、卸売市場日本橋より築地への移転、鋼鉄製橋の架橋(相生橋、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋の隅田川の架橋他、聖橋など多数が建設された)、鉄筋コンクリートの小学校、上下水道・ガスの整備、路面電車の整備など。

隅田川テラスを築地近くの勝鬨橋より永代橋まで約37分で歩くと、その先は箱崎に近い隅田川大橋、その次が清洲橋になる。永代橋と清洲橋は共に関東大震災の復興橋で、橋のデザインが募集された際に統一規格ではなく、橋毎に異なるデザインが採用された為に、復興橋のそれぞれが特徴のある美しい形になっている。

土木学界選奨土木遺産(永代橋横石碑より)
「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合い言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。二つの橋は、近代橋梁技術の粋を集めてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。永代橋は、わが国ではじめてスパン100Mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。


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