現在聖路加病院のある場所に屋敷を持っていた中津藩が蘭学を奨励したことから、中津藩の医師であった前野良沢によりオランダ解剖書がこの地で読まれ、中津藩士であった福沢諭吉により慶応義塾の起源となる蘭学塾がこの地で開かれた。
明治に入ってからは江戸における外国人居留地が船便の良い当地に決められた為に多くの公使館・領事館が造られ、公使・領事達と来日したキリスト教団により学校が創立された。聖路加看護学校、立教学院、明治学院、女子学院などの多くのミッションスクールの発祥の地になった。
日比谷線築地駅と聖路加タワーとの間にはこれらの多くの史跡が残されて歴史の移り変わりを感じさせると共に、中津藩主の蘭学への理解が日本の近代化に多くの功績を残したことが分かる。
現在は埋め立てが進んで聖路加一帯は隅田川に沿った地域になっているが、明治2年(1869年)の古地図によると、当時は小さな佃島に向かって東京湾が大きく広がっており、月島・勝どき・豊海・晴海ふ頭は無く、この海辺に外国人居留地があった。
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