徳川将軍家墓所全体、
徳川将軍家第2代秀忠(ひでただ)、第6代家宣(いえのぶ)、第7代家継(いえつぐ)、第9代家重(いえしげ)、第12代家慶(いえよし)、第14代家茂(いえもち)以外に皇女和宮(かずのみや)、家光の母、綱吉の母桂昌院(けいしょういん)が合葬。
静寛院和宮(かずのみや)
孝明天皇より和宮の名前を受ける。孝明天皇が幕府に対して攘夷を命じるなど世の中が騒がしくなってきた時代に公武合体の為に徳川家茂に降嫁。有栖川宮との婚約を破棄せざるを得なくなった。中山道を辿って江戸へ。大奥の慣習と御所の慣習との狭間で天璋院篤姫との軋轢があったが後に篤姫とは仲直りし好関係は明治の世になっても続いた。徳川家茂は長州征伐の際に病死。有栖川宮は徳川征伐の大総督となり和宮が嫁した徳川征伐に向かうことになる。
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