徳川家康江戸到着当時の地形と現在の地図との比較:
徳川家康到着当時は日比谷入江が現在の江戸城外濠や日比谷公園近くまであり、大手町の一部や、丸の内などは海の中にあった。江戸の街作りには武士、町民などが住む大きな土地が江戸城周辺に必要であった為に、徳川家康は全国の大名に命じて日比谷入江の埋め立てを行った。現在の駿河台は当時神田山と呼ばれて本郷に繋がる台地を形成していたが、この神田山を人工的に切り崩して江戸城の守りとなる外濠の一部を造成すると同時に掘った土を日比谷入江の埋立てに利用した。
神田山の切り崩しにより出来たのが、現在のJR御茶ノ水駅と湯島聖堂との間にある神田川で聖橋が架かっている。橋の上から神田川を見ると相当な高さがあるが、この深さを伊達藩が掘って外濠を造成した為に当時は仙台濠と呼ばれていた。
これらの内容は帝国ホテルの掲示内容や、御茶ノ水駅近くにある駿河台の名称由縁、八重洲通にあるヤンヨーステンの碑などを併せると全体像が見えてくる。
この背景により首都直下地震で津波が起きた場合は、日比谷入江として海面下にあった地域に海水が流れ込んでくる事は容易に想像出来る。
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